2022.11.30[WED]
[&0]風晴優人の信条 灰色の部屋の秘密06
すっと伸びた背中を
私は立ったまま見送った。
砂に足を取られながら、燃える冬の浜辺を
好きな人がひとり歩いていく。
遠くに佇む女性の人影は
やがて風晴さんに気づき、
凍りついたように棒立ちになった。
一歩ずつ、ふたりの距離が縮まる。
堤防に立つ彼女──
自分を捨てた母親、美青さんの前で、
風晴さんは足を止めた。
逆光でふたりの顔は見えない。
それでも、彼が目を逸らさずに
母親を直視していることがわかった。
母親もまた風晴さんを
まっすぐに見つめ返した。
抗えずに視線を吸い寄せられるかのように。
そして──
(!)
泣き声が波音を裂いて、
母親が風晴さんを
がむしゃらに抱きしめた。
風晴さんが息を止めたのが、
顔は見えず声が聞こえなくても
私にはわかった。
再会したふたりの真上で
紺碧に染まりゆく空に
一番星が光りはじめた。
* * * * * * *
それから美青さんが何を語ったか、
ホテルの暖かな部屋でお茶を飲みながら
風晴さんが話してくれた。
風晴さんが予約してくれていた、
美青さんの働く旅館とは別の
リゾートホテル。
窓辺の椅子に並んで座り
カーテンを開いて、
海と星空を眺めながら
風晴さんはぽつりぽつりと、言葉を紡いだ。
* * * * * * *
──……ずっと、あなたに会いたかった。
謝罪を口にする資格も、抱きしめる資格も
ないのはわかってるけど……
顔を見たら駄目だった。
ごめんなさいなんて言って、ごめんなさい。
許さなくてもちろんいいから、
もう少しだけ、抱きしめさせて。
美青さんは、
元財閥の家柄に生まれ育った風晴さんの父親とは違い、
ごく一般的な家庭に生まれた女性だったという。
大学で風晴さんの父親と出会い、
互いを敬愛し合って結婚。
卒業後は金融業界で
着実にキャリアを積んでいったというから、
相当優秀な人物なのだろう。
当時は仕事が生きがいだったと、美青さんは話したそうだ。
それが──風晴さんの父親と結婚するにあたり、
親族一同から退職を迫られた。
風晴さんの父親は反対してくれたものの、
協議は平行線をたどり、最後には美青さんが、
共に生きるためには仕方ないと承諾。
風晴家に入ることを決めた。
けれど、美青さんが風晴家に馴染むことは
叶わなかった。
忙しく不在がちな夫。
古くから伝わる厳格なしきたり。
やんごとなき名家同士の社交。
美青さんは自由に出歩くことも許されなかった。
そんななかでの出産と育児。
広々として多くの人が出入りするお屋敷の中で、
美青さんは完全に孤立していた。
自分がふらっと家を出たことに気づいたのは、
高校まで生まれ育ったこの地方都市の
駅の改札を通り過ぎた直後だったという。
精神的に参っているのだと判明したのは
それよりもさらにあとのことだ。
帰るために電車に乗ろうとするも、
そのたびパニック状態に陥り、
実家の家族に連れ戻される……
それでも、子どもたちを放っておくことが耐えられず、
心配する家族や友人たちを振り切り
タクシーに飛び乗って東京へ戻ったのが、
風晴家出奔から3日後のこと。
けれど──
美青さんが屋敷の敷居をまたぐことを、
風晴家の親族は許さなかった。
美青さんの夫──風晴さんの父親は
美青さんが戻ってきたこと自体、
おそらく知らされていないということだ。
彼らの元へ戻るために
美青さんは様々な手を尽くしたけれど、
ことごとくはねつけられ……
風晴さんの大伯父に当たる人の言葉が
彼女の心を折るに至った。
「あんな可愛い子たちを一度でも捨てた人間を
信じることなどできない。
抱きしめる資格が自分にあるか、よく考えるといい」
風晴家を守るため、引いては、
風晴さんや美玲さんを守るための
愛情ゆえの決断──
大伯父である人物のことを恨んではいないと、
美青さんは穏やかに話していたという。
風晴グループという一大企業を率いる風晴家は、
親族のみならず、
膨大な数の従業員の人生に対しても
重い責任を背負っている。
彼らの重圧は並々ならないものだと
離れてみてようやく、冷静に受け止められた。
大事なものや価値観が違う。
住む世界が違う。
だからと言って、どちらかが
悪というわけではないのだ。
ただ──
子どものことだけは
割り切ることなど到底不可能だった。
一度の過ちにより、
彼女は子どもとも夫とも
繋がりを断たれてしまった。
美青さんは長らく心身を患い、
社会復帰まで何年もかかったそうだ。
離婚成立後は、ずっとひとりで生きてきた。
二度と子どもたちに会うつもりはなかった。
その決意が揺らいだのは、
風晴さんが永遠に風晴グループを去ったという情報を
とある人物から知らされたことがきっかけだった。
その人物は──
風晴さんも私もよく知る、とある男性だ。
深い愛情ゆえに、道を誤った人……
どうやって居所を調べたのか、
彼から突然、手紙が送られてきたのだという。
風晴さんの苦境を知り、
心配のあまり矢も盾もたまらず、
美青さんは衝動的に上京し、
十数年ぶりに屋敷の門を叩いた。
現れたのは大伯父で、
事情を尋ねることもできないまま
追い返されそうになったとき、
美青さんは美玲さんに声をかけられたのだった。
美玲さんに会い、逃げるようにしてその場を立ち去った
美青さんは、はっと我に返り、
今さら自分に何ができるのかと思い悩んだという。
それでも……
せめて気持ちだけは届けたいという我がままを
抑えきれなかったと、彼女は言った。
そして、少額ながら貯金を包み、絵葉書と共に
ハロー探偵事務所へと送った。
一面の空と海に輝く
星々の写真を。
──……私が家を出たあの日、
あなたの運動会だったでしょう?
ずっとふさぎ込んでた私に
幼いあなたは約束してくれた。
「かけっこで一等賞を取って、
お星さまのメダルを
おかあさんにあげるね」って。
受け取らなくてごめん。
本当に本当にごめん。
思い出さない日は1日もない。
あなたと美玲の上にいつも
たくさんのお星さまが輝いていますようにって、
私の代わりに見守っていてって、
毎日祈ってる。
ずっと、ずっと、会いたかった。
──長いようでいて短い語らいのあと、
美青さんと風晴さんは
次に会う約束はしないまま、再び別れた。
* * * * * * *
その夜、私たちはコートを着込んで
夜の浜辺へ散歩に出た。
(星が降っているみたいだ……)
銀色の砂浜には人ひとりおらず、
天国はこんなところかもしれないと
なんとなく思う。
手をつないで、白い吐息をこぼしながら
一緒に空を見上げる。
あの人が風晴さんに送った絵葉書と
同じ光景。
星々に優しく見守られ
祝福されているように思える。
(……駄目だな、私は。
風晴さんは、美青さんとのことを
何もかも話してくれたのに)
結局、かける言葉が浮かばない。
それでも──
そばにいて、手をつなぐ。
つないだ手に、力をこめる。
あなたがこんなにも愛しいと伝わるように。
横顔を盗み見ようとしたら、
風晴さんも、私を見ていた。
[風晴 優人]
……ありがとう。
[ヒロイン]
いえ……。
私はただついてきただけで、
何の役にも立てませんでした。
[風晴 優人]
……何を言う。
風晴さんの目尻が下がる。
[風晴 優人]
お前がいなかったら俺は、
あの人を目にして固まったまま、
何時間でも突っ立っていただろう。
あの人が立ち去るまで。
私を見下ろす瞳が
きらきらと光っている。
ほかには何も、見えなくなる。
[風晴 優人]
……あの人がいなくなった日のことを、
ありありと思い出した。
二度と帰らないと知ったときの、混乱と絶望も。
少しかすれた声は、
今夜の波音のように
穏やかで優しい。
[風晴 優人]
灰色の記憶に、一気に色が戻ったようで……
当分、処理しきれないだろう。
あの人の謝罪に対して
うずまいているこの感情に、
今すぐ名前をつけるのは難しい。
[ヒロイン]
……当然だと思います。
美青さんも言っていた。
許さなくて、もちろんいいと。
彼女は別れ際、
立ち去る風晴さんと私を、
いつまでも立ちすくんだまま見送っていた。
もう二度と会えないと
改めて覚悟を決めるように。
許されたくて話をしたわけではないのだと
すっと伸びた立ち姿から伝わった。
[風晴 優人]
だが……
風晴さんが、視線を上げて星空を見た。
冴え冴えした表情で。
[風晴 優人]
あの人の話を、聞けてよかった。
聞いたからといって許せるとは限らないが……
あの出来事で心が粉々になったのは、
自分だけではないと知れたことは
決して、無益じゃない。
静かに語られるひと言ひと言に
心臓を揺さぶられる。
[風晴 優人]
……次は、美玲も連れてこないとな。
(“次”……)
[ヒロイン]
……それがいいかと。
清々しい笑顔を見ていたら
目が痛いほど熱くなって、
たいした言葉が出てこない。
[風晴 優人]
……お前の涙は、見たくないんだがな。
苦しそうに笑って、
風晴さんが私の頬を両手で包み込む。
こぼれた雫に、指先で触れる。
[風晴 優人]
……星みたいで、綺麗だ。
そんなことを言われて、
ますます瞳が熱い。
(風晴さんの手、もう、冷たくない……)
ぬくもりが潮風にさらわれるのが惜しくて、
大きな手のひらに頬を擦り寄せる。
[ヒロイン]
……私は、風晴さんの強さが、愛おしいです。
[風晴 優人]
強い……俺が?
(ここへ着いたときは、あなたは恐怖に震えているのだと
思っていたけれど)
[ヒロイン]
うずまく混乱した感情を、抑えつけずに直視して……
自分という人間に、逃げずに向き合っている。
そんなところが強いです。
たった片道2時間の、
過去への小さな旅。
けれど、心のたどった道のりは
長く険しいものだったはずだ。
(こんなことを言っても
あなたは「うん」と
言ってくれないかもしれないけれど)
[ヒロイン]
風晴さんは格好いいです。
私の、誇りなんです。
力を込めて告げたら
風晴さんはかすかに笑った。
[風晴 優人]
……そう思っても、いいのかもしれないな。
今回ばかりは。
(え……?)
[ヒロイン]
そうです、いいです!
今回に限らず、この先ずっと、思っていてください!
[風晴 優人]
はは……!
なんでそんなに必死なんだ。
好きな人が、おかしそうに笑う。
世界がきらめき、
波が踊るようにたゆたい、
星が柔らかく降り注ぐ。
[風晴 優人]
お前がいてくれるお陰で俺は、この旅を乗り切れた。
あの人の顔を……灰色の過去を、直視できた。
囁きながら風晴さんが
私をためらいなく、抱き寄せた。
[風晴 優人]
お前という人間を俺は、愛しくて可愛いと思うだけじゃなく、
心から尊敬している。
だからこそ──
目の前に笑顔が広がって
胸の内側が晴れ渡っていく。
[風晴 優人]
お前を愛して、お前に愛されている自分に、
これからは胸を張りたい。
(風晴さん……)
私の体の奥でも今、
名前のつけられない感情が
たしかにうずまいている。
鼓動が騒ぎ、肌は火照って、
痛みと心地よさが同時に押し寄せ
狂おしいほどだ。
私は腕を伸ばして、
おずおずと風晴さんを抱きしめた。
ぎゅっと抱きしめ返されて
全身が震えた。
(ああ……幸せって、
こういう時間をいうんだな)
──ずっと、愛されないことが、恥ずかしかった。
かつてあなたはそう言った。
切ない想いを抱えて生きてきた
過去のあなたを今、
柔らかく包み込みたい。
新たに塗り替えられた灰色の記憶が、
再び古びて、優しい色合いに変わるまで
一番近くで見届けたい。
[風晴 優人]
……顔を上げてくれ。
[ヒロイン]
はい……。
誘われるままに
顔を上げ、背伸びをする。
冷えて赤くなった鼻先を
どちらからともなく
こすり合わせた。
[ヒロイン]
ふふ……くすぐったいです。
[風晴 優人]
我慢しろ。
これからもっと、
くすぐったいことをするんだからな。
(くすぐったいことって……?)
甘い眼差しに
耳の先がカッと熱くなる。
[風晴 優人]
嫌とは言わせない。
[ヒロイン]
そんなこと……
[風晴 優人]
言わないのも、もう知ってる。
風晴さんはふっと笑い、
屈んで私にキスをした。
誘われるままにまぶたを閉じたら、
星月夜の眩しさが増すようだった。
ちかちかと瞬く星たちが、
私たちの未来を寿ぐように
どこまでも優しく微笑んでいた。
──終わり