2022.11.30[WED]
[&0]風晴優人の信条 灰色の部屋の秘密05
[ヒロイン]
電車、空いていてよかったですね。
[風晴 優人]
平日の昼だからな。
乗り込んだ電車は人もまばらで、とても静かだ。
ボックス席に並んで腰掛け、
火村さんが持たせてくれた水筒から
用意したコップふたつにお茶を注ぐ。
ほうじ茶の香ばしい香りが
尖った神経をなだめてくれる。
[風晴 優人]
……うまいな。
[ヒロイン]
はい……。
封筒の件があってから、
ふたりきりになるのはこれが初めてだ。
(いざとなると、何を話せばいいか……)
[風晴 優人]
向こうについたらまず食事にしよう。
会うのは夕刻だ。
[ヒロイン]
え……?
[風晴 優人]
昨日のうちに、アポイントは取っておいた。
[ヒロイン]
!
おか──美青さんとお話したんですか?
[風晴 優人]
いや、不在だったので、旅館の方に伝言を頼んだ。
日中は外回りで出掛けているとのことだったので、
夕方、絵葉書の場所で会うことにした。
[ヒロイン]
そうですか……。
風晴さんの横顔を見つめる。
目の下の隈が痛ましい。
(眠れなかったんだ、昨日)
風晴さんはどことなく上の空で、
視線を窓の外にさまよわせている。
線路に張り付くようにして建つビル群が
徐々にまばらになっていき、
やがて緑が深くなり──
(あっ、海……)
山あいにきらめく青が、目に染みた。
目的地が近づいてくる。
[風晴 優人]
……美玲から連絡があった。
はっとして、風晴さんに
視線を戻す。
横顔が心なしか、出発時より張り詰めている。
[風晴 優人]
あいつにいろいろ聞かされたんだろう。
[ヒロイン]
……はい。
無断ですみません。
[風晴 優人]
謝るのは俺のほうだ。
……すまない。
実家のゴタゴタにお前を巻き込んで。
[ヒロイン]
いえ……。
[風晴 優人]
こんなことなら、母親のことも
事前に話しておけばよかったな。
まあ、話すほどの記憶もないが……。
(……本当にそうなのだろうか)
質問は胸にしまう。
覚えていないのなら、それでいい。
話したくないのなら、聞きはしない。
いつか話したくなったなら、
黙って耳を傾けたい。
窓の外の風景は、ぐんぐん広く、青くなる。
[ヒロイン]
……風晴さん、無理をしてはいませんか?
[風晴 優人]
ん……?
[ヒロイン]
美青さんがどうして、急にご実家に現れたのか、
風晴さんに金銭を送ってきたのか……
いろいろと考えてみましたが、仮説が浮かびませんでした。
(だって……)
[ヒロイン]
どうしたって、私には理解ができません。
あなたのそばに居続けたいと、決めているので。
風晴さんの目が、私を捉える。
焦点が絞られて、私だけを見つめているのがわかる。
(幼いあなたを置いていった人の心が、
理解できない)
非難の言葉が浮かぶわけではない。
ただ──本当に、わからないのだ。
[風晴 優人]
お前が思い詰めることはない。
ふっと目元を和らげて、風晴さんが私の手を握った。
長い指が冷え切っていて、
肺を圧し潰される心地がする。
[風晴 優人]
金を突き返し、戻ってくる──
それだけの話だ。
そう言って風晴さんは、また口を閉ざした。
それだけの話──そう言いながらも、
口元が固く、こわばっていく。
海はもう、すぐそこまで迫っている。
(美玲さんに、風晴さんの話を聞くと約束したけれど)
私たちの不動のエースの瞳は今、
目的地に到着するのを恐れるように、揺れている。
(何も感じていないはずがない。
なのに……その思いを吐き出してもらうことが
私には、うまくできない)
不甲斐なさで、指先が震える。
湿った暗い雲が、頭の内側を支配して重たい。
乱反射する水面を、うとましく感じる。
(美しい光景のはずなのに)
好きな人が笑顔じゃなければ、
世界は灰色に見える。
(私の力では、今すぐあなたを笑顔にさせられない)
それでも──
(彼女に会う前に、これだけは伝えておきたい)
[ヒロイン]
風晴さん。
[風晴 優人]
ん……?
[ヒロイン]
過去は変えられませんけど、未来に関しては
断言できます。
[ヒロイン]
私はあなたから離れません。
ひとりにしません、絶対に。
風晴さんの瞳が見開かれて、
わずかに目尻が赤みを帯びた。
[風晴 優人]
……絶対なんて、安易に言うものじゃない。
[ヒロイン]
安易じゃありません。
絶対と言ったら、絶対です。
力強く言い切ったら──
[風晴 優人]
まったく……だだっこか、お前は。
(あ!)
くすっと漏れた笑みに、胸が鳴った。
シャボン玉をぱちんとつついたような
小さな弾み。
それだけですっと、
ふたりの間に、清々しい風が吹いた。
[風晴 優人]
……絶対じゃなくても嬉しい。
生涯、忘れない。
[ヒロイン]
絶対だって言っているじゃないですか。
[風晴 優人]
強情だな。
[ヒロイン]
それは風晴さんです。
口喧嘩をして、また少し、笑い合う。
(……大丈夫、私たちなら。
悲しいだけの旅にはならない。
この先何が待ち受けていても)
* * * * * * *
砂浜に足を踏み入れると、空も海も燃えていた。
(すごい夕焼け……)
冬の浜辺は冷え冷えとしていて、
人もおらず、波音ばかりが大きくて、
世界の行き止まりみたいだ。
[風晴 優人]
待ち合わせ場所は、この先の堤防だ。
風晴さんの指差したほうへ、並んで向かう。
パンプスが砂に埋まって、歩きにくい。
風晴さんは革靴でも、いつもの通りまっすぐに進む。
けれど一歩ごとに、足取りが重くなっていく。
やがて──
視線の先に小さく人影がひとつ見えたとき
完全に歩みが止まった。
[風晴 優人]
……………。
(風晴さん……震えている?)
ダッフルコートを着込んでいても
ひどく寒そうで、今すぐ抱きしめたくなる。
その視線はまっすぐに、彼女へと向けられている。
風晴さんの喉が、くっと鳴るのが聞こえた。
硬直した全身から、恐怖が──
とめどない悲しみが、噴き出している。
前に進むことも、踵を返すこともできずに、
まるで……置き去りにされた子どものように。
そして、隣に立つ私の中にも
めらめらと、ゆらめきたつものがある。
風晴さんにこんな顔をさせている人を、
責め立てたくてたまらない。
でも、そんなことをすればこの人は、
ばらばらになるくらい、もっと苦しむ。
(なら、どうすればいい?
何ができる?
何でもしたい。
何でもできる……
あなたを笑顔にするためなら)
[ヒロイン]
……!
力を込めるあまりに、
手がわなないていることに気づいた。
私の中に、これほど荒々しく激しい衝動が
眠っていたなんて、知らなかった。
(落ち着こう。落ち着かないと。
緊急時ほど冷静に……。
風晴さんに教えられてきたことだ)
私は、傷を抱えて生きるこの人の
そばに居続けると決めたのだから。
風晴さんは、固まったまま、動かない。
太陽が海に身を沈め、空を暗くしはじめている。
(風晴さんが今、味わっている感情は……
私にも、誰にも、どうにもしてあげられない)
それでも、私は──
[ヒロイン]
……風晴さん。
声をかけて、手を握る。
冷え切った指先を、手加減なしにきつく。
[ヒロイン]
風晴さんの、心のままに。
[風晴 優人]
……!
[ヒロイン]
どんな選択をしても、風晴さんが私は好きです。
大好きです。
ゆっくりと風晴さんの首が動いて、
視線が交わる。
落ちかかる前髪の影で、瞳が光っていた。
[風晴 優人]
……ありがとう。
我を忘れるところだった。
風晴さんの手がしっかりと、
私の手を握り返してくれた。
[風晴 優人]
行ってくる。
お前はここで見守っていてくれ。
今の俺なら、前に進める。